My Architecture Report

建築探訪エッセイ。だいたい月一回更新。

感性や嗅覚 / うちの近所

3月末で会社を退職した。職場に不満があったわけでも、次が決まっているわけでもないが、入社してそれなりの年次となり、一区切りして環境を変えてみようと思った。手続き上は5月末で退職となり、3月末が最終出社、4月と5月が丸ごと有給休暇だ。最終出社日は会社が完全在宅ワークとなる直前で、タイミングとしてはなんとか職場の方々に挨拶して回れた。その後になって緊急事態宣言が出されたのは周知のとおりで、元々さして確定した予定はなかったが、ほとんどを家の近所で過ごす「在宅休暇」に突入した。

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住んでいるアパートは東京の住宅地エリアにあり、会社に通っていたときは駅からやや遠い立地を不便に感じることもあった。だが、外出自粛の状況になると一転して、人が少なく風通しのいい環境や密度に安心を感じる。もっと便利な引越し先をぼんやり探してはいい条件のところが見つからず断念、ということをここ一年ほど繰り返していたけれど、何が吉と出るかはわからないものだ。

外出自粛が始まったころはまだ部屋に暖房をつけていたが、今ではとうに初夏の陽気になった。部屋に熱がこもって、さりとて冷房をつけるのも大袈裟な夜遅くなどには気分転換もかねてゆっくりと家の周りを歩いてみる。特に、近年URの開発した集合住宅の裏の、細い道が複雑に入り組んだ戸建て住宅の密集地帯は、迷路のようでおもしろい。個々の住宅の外装やデザインといった細部がうまい具合に夜のとばりによって捨象され、小刻みに角度が変わるがゆえに先を見通せない、ある種スリリングな路地に身体と感覚が集中される。以前、府中に泊まりがけの研修に行った際、夜の郊外にシュールな存在感が横溢していたさまに驚いたことを書いたが、こんな身近な、部屋から5分歩いただけのところでも非日常の体験ができるとは今まで気付いていなかった。住んでいるエリアについて、当然ながら普段は空間的に特定・限定された範囲としてとらえているわけだが、時刻や季節といった相の重ね方の工夫によっては、まだまだ身の周りの環境も広がっていくのだろうか。

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また別の日の午後。家から少し離れた場所にある八百屋に買い物に行ったついでに、その近くを少しぶらついてみた。ここもまた、まさに蔦が這うようにびっしりと小家のひしめく住宅地である。しばらく行くと、細い路地の片側が緑の壁のように鬱蒼としている場所が見え、鎮守の森だろうかと興味をひかれ、自然と足が吸い寄せられた。前まで来てみると、竹藪や雑木の高い生垣や、樹径数メートルはあろうかというケヤキの大樹が道沿いに根づいていて、敷地の中は小さな公園ほどの土の地面が広がっている。一瞬、神社かと思ったが、奥の方に細い木の柱が均等に並び、こちらの緑に向けてふんだんにガラスの開口を配した細長い矩形の2階建ての建物が見え、ああ、住宅なのかと知れた。それとほぼ同時に、生垣が途切れて門のようになっている脇に、郵便屋さんが困るのではというくらいに控えめに郵便受けが立っていて、そこに著名な建築家の名前があった。自邸が有名な建築家の方ではあったが、こんなところにあったのか。自分が勝手に育んできたイメージを、不意に眼前に現れた建築に合致させるのにしばしの時間を要した。

それにしても広い敷地だ。そして家が大きいことも間違いない。だが、「豪邸」という感じはない。財力の誇示に取り憑かれたような外観表現もなければ、不信感の塊のような塀もここにはない。都市部に残る豊穣な林に凛として寄りそい、静かに息を整える、といった情調でたたずんでいる。

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緊急事態宣言の期間中は建築を見に行くなんてこともできず、仕方なくエッセイも中断するのかと諦めていたが、まさかうちの近所について、しかも既知の内容ではなく自分なりに新しい発見のあったこととして書くことになるとは思ってもみなかった。なんの気なしに歩いていた先に名作住宅と出会うとも思っていなかった。

そういえば学生のころ、研究室の先輩と「建築を見つける嗅覚」について気楽な雑談をしたことがある。往年の名ストライカー、元アルゼンチン代表のガブリエル・バティストゥータは、「そこにゴールがあるから蹴るんじゃない。俺が蹴るからゴールがあるんだ」との名言を言ってのけたという。「自分が行く所にいい建築がある」と確信を持って言えるくらいの感性や嗅覚に憧れる。