My Architecture Report

建築探訪エッセイ。だいたい月一回更新。

謎のウッツォン / バウスヴェア教会

スマホのメモに「ウッツォン」と入力したつもりでいたら、予測変換で間違いがあったのか、「ウッチャン」と保存されていました。ヨーン・ウッツォン(1918〜2008)はコメディアンではなく、デンマークの建築家です。こんなふうに、日本の一般の人たちにウッツォンはなじみが薄いかもしれませんが、シドニーのオペラハウスを設計した建築家だと教えると、その少々覚えづらい名前に対する畏敬の念も変わってくるようです。シドニーのオペラハウスをぼくはまだ実際に見たことがありませんが、建設に携わった構造エンジニアのピーター・ライスが、その自伝の中で「スケッチは天才的で…」などと、ウッツォンの資質やパーソナリティーを称賛していた記憶があります。そうしたこともあり、ウッツォンの建築を訪問することは、自分にとっては密かな宿願でした。

東京からコペンハーゲンに9月15日(土)の夕方に到着し、その日は宿にチェックインして終わり。翌日はコペンハーゲンの街をぶらぶらと歩いて、時差ボケ解消と街に身体を慣らすことに使用。3日目から本格的に見物でも始めるか、ということで、まず午前、「バウスヴェア教会」に向かいました。

 

f:id:rmI:20181124110226j:plain

 

バウスヴェア教会は、ウッツォンの設計で1976年に完成した教会建築で、コペンハーゲン中心部から北西に電車で20〜30分ほどの郊外にあります。高架をはしる電車から平らな森や家並みが広がる景色を進んでいき、バウスヴェアの駅に順調に到着。セブンイレブンなどいくつかのお店が入った駅前のビルを通り抜けると、広い道路の通る住宅地となっています。天気も良く、道路にはそれほど車も走っておらず、そよ風の気持ちいい閑静な郊外の環境です。その道路を西に向かって緩やかに登っていき、5分ほど歩くと、左側の少しだけ高台になっているところ、芝生が敷かれた土地に、木に囲まれて、薄くグレーがかった白色をしたバウスヴェア教会がぽんと建っています。「きれい」「かっこいい」あるいは「ださい」といった単純な言葉では形容しきれない、なんとも不思議な構え。外に対して開口がない白い箱状のボリューム、という説明になるのでしょうが、外壁のパネルの割り付けがそれなりに強調されているあたり、抽象的なオブジェを作ろうとしたようにも見えません。それにしても、いたって簡素で、半歩まちがえれば何の変哲も無い工場のようにすら見えてしまいそうです。

周囲の芝生や池をぐるっと一回りしてから、正面の扉の前へやってきました。ところが、鍵がかかっていて開きません。ノックをしても、ハローと呼びかけてみても、返事がありません。事前にネットで調べた限りでは、開いている曜日と時刻のはずなのですが…。しばらく待とうと近くのベンチに腰をおろしていると、ほどなくして40から50代くらいの日本人の三人組が近づいてきて、その中の小柄な女性が声をかけてくれました。教会の方と話したが、今日は礼拝室を使用するため公開されていない、脇の別の入口は開いていて回廊部分までは入れる、明日は全て開いている、との由。「ネットには今日開いてるって書いてありましたよねー」と女性も話しています。まあ、仕方ありません。その日はすぐに引き返しました。

    *    *    *
翌日の朝、前日の行動をそっくりなぞるようにバウスヴェアまで来ました。暖かく晴れた天気も前日と似ています。駅の前の大きな交差点で横断歩道を渡っていると、対岸を昨日の三人組が急ぎ足で帰っていくところでした。同じ道を歩き、再びバウスヴェア教会に到着。やっぱり、あっさりとした外観です。礼拝室に続く正面の扉は今日も開いていませんでしてが、脇の入口は開いていました。
中に入ると、寡黙で無愛想な外観からはにわかに想像できない、乳白の光にぼんやりと満たされた回廊の空間がはじまります。教会の人は見当たりませんが、遠慮なく入ってよさそうな明るい雰囲気です。
バウスヴェア教会は、間取りとしては実にシンプルです。梯子を地面に倒したような形に細いコンクリート柱の架構の回廊が巡り、回廊に囲われた部分が集会室や中庭、礼拝室にあてがわれています。しかし、この整然とした平面構成に、さらに様々な要素が重ね合わされて、ひとつひとつが特徴的な空間をもつ、多様な場所が現れては消えてを繰り返す建物になっています。回廊は細い幅に比して天井が高く、その異様に縦長の空間を、三角屋根のトップライトからの光が均一に照らしています。閉鎖的なような開放的なような、不思議な廊下。教会の方とすれ違ったときは、「お邪魔してます」「ええどうぞ」と言葉を交わしながら、廊下の幅が狭いので身体的にはお互いに少し相手の道を除けるように気遣いつつも、上方への開放感は依然として意識の中に保たれている、といった複雑な面白さのある体験に思われました。中庭や集会室もリズミカルに配置され、集会室には、この建物のところどころにあらわれる重要なデザイン要素である、波打つような形状の天井もあらわれます。

今日こそは礼拝室にも入れました。回廊からの扉を開けると、中には誰もおらず、床から2メートル弱くらいの高さに横一列に設置された橙色の電球が一斉に点灯しました。さらに中に進んでいくと、礼拝室の大きな空間があらわれます。祭壇や礼拝の席、そして曲面の組み合わさった天井が徐々に上に向けてすぼまってゆき、ハイサイドライトにまで達している空間です。この波打つような天井は、集会室のそれなどとも共鳴するものですが、ここでは他に類を見ない、ダイナミックで特異な造形としてあらわれています。礼拝室の上昇感を担っているような、あるいは上からの光のしたたりを受ける面にもなっているような。

 

f:id:rmI:20181124110247j:plain

 

複雑な方程式を単純な補助線で解くような操作がスマートな設計である、とは確かな事実でしょう。教会の必要諸室を単純な回廊形式で手際よく納めていくのは、なるほど、スマートな解法です。しかし、この礼拝室にいたっては、そうした理屈やセオリーからはとうてい出てこないような、建築家の個人的な感性や造形感覚からしか出てきようのない空間に見えます(もちろん、音響や光の効果に寄与するとしても)。さらに興味深いことに、これだけ特徴的な空間でありながら、建築家の自己顕示のにおいがしません。建物全体の設計の中でこの部分だけ気晴らしに遊んだ、やりたい放題やった、というふうにも見えません。自分だけの感想かもしれないけれど。

教会の人にお礼を伝えて外に出て、あらためて全体を眺めてみると、やはりこの素っ気無さが不思議です。ただ、周囲がそれなりに芝生や樹木に囲まれているこの土地であれば、むしろ建物のみてくれはこれくらいの主張度が必要十分であるようにも思えてきて…と、疑問と答えがぐるぐると頭の中を巡ります。2か月近く経っても、バウスヴェア教会にまつわる疑問や謎は依然そのまま。言語化しきれないことのもどかしさが、いつになく募ります。

     *    *    *

このバウスヴェア教会に関しては、これまで書いてきた6回のどの回よりも、参考文献的な資料をほぼ何も見ずに書いています。かといって他の回もたいして勉強しているわけではありませんが。ともあれ、今回はヨーン・ウッツォンの生没年、バウスヴェア教会の完成年を調べたくらい。その代わりか、建物と文章の関係について、とても面白い経験をしました。デンマークから帰ってきて1か月ほど経って、建築家の青木淳さんの最新の著書を読んだときのこと。直接的にウッツォンへの言及があったわけではなく、ぼく自身ことさらデンマーク旅行との関連を意識して本を読んだわけではないのに、本の中で青木さんが称揚されている建築やアート、興味をひかれているプロジェクトに関する言辞が、ことごとくバウスヴェア教会に当てはまるような気がしました。

“建築の設計とはある場所の「くうき」を気持ちいいものにすること” にはじまり、

“視覚的に一瞬で捉えられない” 建築の作り方、

“造形としてもそれが孕む空気としても優れている” ことの魅力や、

“無造作な建ち方により作為性が消された” デザインの強度。

また、“内観と外観の一致というモダニズムの規範に違反し、しかし内部空間では「建築が内面を語る」というモダニズムの起源を復権している” おもしろさ。そして、

 “「わかりやすい」建築を必要とするのは、広い意味での「商業建築」であり、それ以外の多くの建築にとって、「わかりやすさ」はけっして最重要のテーマではない”

現代のホテルに入るチャペルならばいざ知らず、ごく普通の街の教会が商業建築であるはずがない。とすると、わかりやすい建築である必要はない。だから、バウスヴェア教会やその建築家を一言で総括することを断念し、不思議がってばかりいる自分の態度も、案外健全なのではないか…。そんなささやかな自己肯定を感じたのでした。